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1940 甲府市に生まれる
1952 甲府市立新紺屋小学校卒業
1955 甲府市立甲府北中卒業
1958 山梨県立甲府一高卒業
1963 私立国士舘大学卒業

 

 

1963 山梨県立身延高校へ新採用
1967 山梨県立巨摩高校
1970 山梨県立甲府工業
*ボクシング部顧問
 全国優勝
フェザー級 鶴田今朝春

1977 山梨県立峡南高校
1982 山梨県立塩山商業
1984 山梨県立甲府昭和高校
*かいじ国体、ボクシング監督
 
1989 山梨県立甲府東高校
1993 山梨県立石和高校
*山梨インターハイ柔道の部委員長に就任
*監督として全日本高校柔道チームをドイツへ
2000 退職

現在 よろず相談室 塾長(カウンセラー)
        株式会社ハロー山梨

              
    興和警備など2社の役員も兼任


当初より国士舘大学同窓会山梨県会長を歴任
山梨県国士舘大学柔道部県人会会長歴任
後輩の育成に力を注ぐ

国士舘大学柔道部山梨県OB会名簿
卒期
氏名
卒期
氏名
専13
塚原信一
体27
岸辺俊一
体4
古屋廣
体28
田上潔
法5
窪田高幸
体30
小松利行
体15
市川光平
体32
戸沢仁
体19
佐々木秀人
法20
藤本和幸
体21
西田孝宏
体37
内藤靖之
体26
近浦研一
 
 

 

山梨の柔道

京都武徳会山梨支部設立。明治30年、金邊八三郎氏が山梨県警察部の要請で柔道教師として来任して以来、昭和18年(戦時中)に70歳で病没するまで指導に当たり、没後、甲府市元紺屋町の宗信寺に葬られている。

先生は明治6年8月15日岡山市上出石の柔道家、金辺金松氏(岡山藩士)の嫡男として生まれ、後に講道館で嘉納治五郎先生に学ぶ。

昭和4年山梨県体育協会が設立され、山梨県柔道連盟はその傘下に入る。同年5月4日と5日の両日、御大礼記天覧武道大会が宮城県の内済寧館で開催され、関口八郎初段が晴の代表選手として出場する。

山梨の柔道の草創期から柔道発展に努力・貢献した人としては市川吉六先生(山梨市出身の歯科医で昭和12年に62歳で没)、加賀美一平先生(春日居村出身で昭和43年に88歳で没)をあげることができる。又、現在の山梨の柔道の道筋を立てて確立したのは小沢利友先生である。

小田常胤先生は明治25年3月10日南都留郡船津字浅川で父乙吉、母くまの三男として生まれました。当時、都留郡には中学がなかったので伯母の住む静岡の県立沼津中学に学んだ後、皇典講習所卒(現・国学院大学)。大正4年春に参加した講道館紅白試合は大日本柔道史に名試合として載っています。寝技を得意として、「寝技の小田」の名をほしいままにしました(特に三角絞め)。

講道館では昭和33年から9段位を最高段位とすることとなり、小田先生はこの最高段位を得られた郷土の誇る大先輩である。

又、戦前から戦後にかけて活躍した人として、塚原信一(国士舘大卒)、羽田弘(法政大卒・全日本選手権1回出場)。佐野始(国士舘大中退・インターハイ軽量級2位)。古屋廣(国士舘大卒・全日本Jr監督としてドイツ遠征)。秋本勝則(拓殖大学卒、光洋産業・フランス国際及び嘉納杯65s級優勝。田上卓彦(拓殖大学卒・光洋産業社長)。田上潔(国士舘大学卒・国士舘大学柔道部専属トレーナー)。志村仁及び中嶌大貴(東海大相模高時代インターハイ団体優勝・国際武道大卒)。西田泰悟(国士舘高時代インターハイ団体優勝・山梨学院大在学中)。深澤大介(国士館高時代インターハイ団体優勝・国士舘大中退)。女子の部としては西田優香(全日本体重別大会軽量級優勝)。赤池杏奈(竜王中・全国中学大会3位)。高部由美(河口湖南中・全国中学大会2位)等がある。

正力杯71s級優勝の土屋好英(日本体育大学卒)。全国大学大会中量級3位の小林義則(日本体育大学卒)。又、軽量級3位の佐々木秀人(国士舘大学卒)、60s級3位の近浦研一(国士舘大卒)、団体戦準優勝の岸部俊一(国士舘大卒)の三人は甲斐路国体後、山梨に就職し本県の為に現在がんばっている。

さらに甲斐路国体の団体戦優勝監督の近藤茂がいる(身延高〜法政大卒)。

その後、山梨学院大学が招聘した西田孝宏(国士舘大学卒・世界Jr選手権71s級及び70s級優勝)、山部伸敏(鹿屋体育大学卒・全日本学生66s級3位)の二人の先生は山梨学院大学に就職して、本県の柔道の底辺拡大と柔道の飛躍の為に力を注いでくれている。今後の指導に期待をしたい。

@本県の歴代の柔道連盟会長

 初代:浅川源澄・山梨師範卒(現・山梨大学)

 二代:雨宮琢磨・京都武専卒

 三代:河野友男・警察官

 四代:松木幹之甫・山梨大学卒

 五代:市川光宣・山梨大学卒

 六代:長田定光・警察官

@本県の歴代の高等学校の委員長

 初代:丸茂義光・日本体育大学卒

 二代:志村誠俊・高等教員養成所卒

 三代:飯島好利・山梨大学卒

 四代:渡瀬正典・高等教員養成所卒

 五代:村田一郎・日本体育大学卒

 六代:中澤 進・日本体育大学卒

 七代:望月昌三・日本体育大学卒

 八代:望月孝男・日本体育大学卒

 九代:小林義則・日本体育大学卒

 十代:古屋  廣・国士舘大学卒

 十一代:相原真樹・山梨大学卒

 十二代:山本 司・東海大学卒


@平成18年度、全日本学生優勝大会女子団体で山梨学院大学柔道部は優勝、創設以来の快挙を成し遂げた。男子個人では手塚勝彦(山梨学院大学・全日本学生体重別大会90Kg級2位)、須藤英雄(山梨学院大学卒・ダイコロ・日本選抜体重別大会優勝)、坂本潤二(山梨学院大学・全日本Jr体重別大会優勝)、西田泰悟(山梨学院大学・チェコJr国際大会優勝)、ブヤンバット(日本航空高校・インターハイ73Kg級2位)、高部由美(山梨学院大学・全日本学生大会団体優勝メンバー)。                        A 
 女子個人では、西田優香(淑徳大学、世界Jr柔道体重別52Kg級優勝)小沢里奈(山梨学院大学・全日本Jr体重別大会優勝)、町田郁子(山梨学院大学・世界Jr体重別大会2位)、小野江邦(山梨学院大学・ドイツJr国際大会3位)、上田菜々(山梨学院大学・韓国Jr国際大会3位)、山本志乃(広島大学・全日本学生体重別大会78Kg超級3位)、オトゴンジャルガル(日本航空高校・インターハーイ63Kg級3位)、山本志乃(日川高校・インターハイ78Kg超級3位)、以上、山梨学院大学勢他の活躍により、山梨の柔道のレベルが全体的にあがったと思う。今後の活躍が楽しみである。



柔道の歴史

柔道の歴史をみると、今から500年前、足利時代に武士の戦場での鎧組み打ち術として日本に発生し、徳川時代に柔術として確立したのち多くの武士により研究されてしだいに発達し、武士達は徒手で自らの身を護る方法として是を学んだ。

明治維新後は古い封建社会から新しい市民社会に生まれ変わったので、東京帝国大学の学生であった嘉納治五郎先生が、従来は武士の武術であった柔術を研究し、起倒流・天神真揚流を母胎とし、広く西洋の合理的精神を取り入れ、生理学、力学にもとづいて集大成し、明治15年講道館を開いて「心身の力を最も有効に使用する道」としての柔道を完成された。

柔道が一定のルールを持つスポーツ「柔道」として広く市民に親しまれるようになり、第二次大戦前には日本国内のみならず世界55カ国で国際的スポーツとして発達しつつあったのである。

しかるにドイツ、日本の惹起した戦火が世界人類より平和を奪い、スポーツを廃止させ、とりわけ日本においては、いっさいの物が、有形・無形としての性格を捨て、昔の柔の術を歪曲、敵を倒す武器の如く誇称宣伝された。よって、終戦直後には学校で行う柔道はいっさい禁止され、一般の国民スポーツとしての柔道も一時、衰徴のやむなきにいたったが、その近代スポーツとしての性格と多数の国民の希望とがようやく、進駐軍総司令部当局に理解されるところとなり、昭和26年度より再び中学校以上の体育課の一教材に採用され、国民間の柔道愛好熱とあいまって復興の一途をたどり、今日青少年の間に、新しい魅力をもって迎えられている。

嘉納家(柔道)

 三百数十年前、嘉納屋宗徳は酒造りを始めた。菊正宗酒造・嘉納治五郎は幼名を信之助といい、万亀元年(1860年)10月28日、父・次郎作希芝と母・定子の第五子(三男)として摂津国菟原御影村(現在の神戸市東灘区御影町)御影の浜に接する八百余坪(2,700平方メートル)という途方もない豪邸に生まれた。

嘉納の名の由来は、古事記や日本書紀に登場する神功皇后に酒を献上したところ、嘉納られたということで嘉納と名のる。明治8年に(1875年)東京大学の前身である官立開成学校に入学。(文学部進学:法・理・文・医の4学部) 

その後明治15年(1882年)2月、東京都下谷北稲荷町永昌寺に12畳半の部屋を借りて柔道場を開いた。ここに、世界に冠たる講道館が誕生した。