水田拓プロフィール
●<身体と表現>、<呼吸・発声のメカニズムと表現の関係>を探りながら
独自の方法で呼吸や発声の基本を踏まえた俳優、声優、コミュニケーションのための声や言葉や
身体表現、身振り表情などの指導にあたる。
●山梨県出身。日川高校卒。早稲田大学卒。
●清水邦夫、三島由紀夫、別役実、矢代静一、小松幹生、福田善之、井上ひさしなどの作品の演出。
宮沢賢治、金子みすず、深沢七郎、山本周五郎、中里介山などなど朗読、表現指導。
●高校演劇の審査員、呼吸・発声・発音/朗読の指導。
●劇団や会社員や主婦、大学、高校生などを対象に
<呼吸、発声、発音の基本ふまえた「新しい話し方教室」
喋る・話す・語る・演ずるための「言葉の学校」を設立。
●学校・児童センター・図書館・デイケアーなどでの表現活動とその指導。表現することの面白さ・楽しさ
/表現活動を通じてこころの問題/生きがいの問題などを考える。
●声と言葉の学校
声を出して読んだり喋ったりする楽しさ面白さを
このワークショップを通して体感してもらいます。
ワークショップを始める前にワークショップの狙いについて少し話しておきたいと思います。
「声を出して読みたい日本語」という本がベストセラーになり
朗読に関心が寄せられ、朗読ブームだそうです。
声と言葉に関心を持ち仕事してきた私としては何とも嬉しいブームです。
前置きはこの位にし、<声の魅力>と<言葉の命>について考えてみたいと思います。
魅力的な声と言葉の命について
あの人の声は<いい声>だとか<綺麗な声>だ。そんな声を耳にしますが、
私の考える<声の魅力>とは少し違うと思います。
俗に言われる<いい声><綺麗な声>は確かに耳に心地よく、悪いこととは思いません。
でも<いい声><綺麗な声>にはよそよそしさを感ずるのは私だけではないと思います。
<いい声><綺麗な声>を出そうと意識して声を出している人がいますが、
そうした事よりは、その人が本来的に持っている声を飾らず自然に出すことで魅力的な声を
考えてみたいと思います。
音声としての声でなく、その人の個性が自然に滲み出る声が<魅力的な声>なのです。
自然に個性が滲み出るてくる自然な声で話したり喋ったりする人が少なくなっている。
その原因は何だろうと仕事を通じて考えてきたわけでず。
結論からいいますと呼吸と発声と言うことになります。
誰も呼吸だとか発声を考えながら話したり、喋っている訳ではない訳ですから、突然そんなことを言われても
戸惑うばかりだと思います。
呼吸・発声というと、例えば、俳優、声優、歌手を志す人がすることだと思っていますが
私はそうではなく
人は声や言葉や身体表現をして
コミュニケーションを図り生活している訳ですから
呼吸・発声・発音なんか関係ないとも言えないと思います。
日常のコミュニケーションにとってもこの呼吸や発声・発音は大切だと考えています。
分かればいいとか通じてるんだから、それでよしとせずに
<声の魅力><言葉の命>といったことを考えると
なにげなく話したり、喋ったりしている自分の声や喋り方のお粗末さに気づきます。
これが今回のワークショップの狙でもあります。
自分の声を発見しょう。
知っているようで知らないのが自分の声です。
よくいわれることなんですが、自分の中で鳴っている声と相手に聞こえている声は違うんだということです。
例えば、録音された自分の声を聞いて「エッ!」と驚いたり、妙に甲高い自分の声、活舌がわるくハッキリ
しない喋り方にびっくりしたりとか
自分の様々な癖や欠点に気づき、恥ずかしい思いを体験した人は多いと思います。
私も初めてテープで自分の声を聞き恥ずかしい思いをしたことがあります。
改めて自分の声を聞き、嫌いだと思っている人も少なくありません。
この声があなたの声です
人間的な温もりのある深い声にまずびっくりします。
特に女性は「こんなに低い声なの、嘘でしょう」と思いますが
聞いている人達は温もりのある声に関心します。
男性は落ち着いた響きのある声にびっくりします。
そして無理やりつくった感じがなく自然な声だと感じます。
大きな声を出せずに悩んでいる人は何故こんな声が出たのかびっくりします。
本当の自分の声が出た時
声が身体のから自然に出できて外に広がって行く
そんな自分の声が出せた時人は気持ちよく気分のいいものです。
声を相手のこころに届ける
届いた時の感覚を体感してみよう
●大きな声で元気に話そう!
大きな声を出したり、大きな声で笑ったりする健康法があります
大声で笑ったりする健康法がTVなどで紹介されましたが
人は何時も大きな声で元気に話して不愉快になる人はいません
考えて見ると、子供も大人もみんな元気に大きなしっかりとした声で
話していたのです
また、「オギャ−オギャ−」と張り産声をあげ人は生まれて来たのに
あの元気な誕生の第一声を忘れたのでしょうか
一体どうしちゃったのでしょう
どうして元気な声が出なくなってしまったのでしょうか
最近の子供たちは元気がないとか
大きな声でしっかりとした喋りが出来ないといった
様々な嘆きごとや心配する声をよく耳にします
私はその多くが大きなしっかりした声を出すための
身体の使い方を忘れたしまたのだと考えます
生活のスタイルの変化も関係していると思いますが
もう一つ大事なことは<結果>だけを見て
<頑張っていない>とか<やる気がない>とか
<いくら言っても分からない>などと憤慨して何の解決にもなりません
それは<結果>だけを見て騒いでいるに過ぎません
言われた子供たちにとってはなんでそんなに騒いでいるですかと思うだけで
こちらの心配を一向に理解できずにきょとんとしているだけです
よく人は<声が小さい><声に元気がない>ととやかく言うのはどうかと思います
<大きな声を出そう>と意識して頑張っている子供たちの<こころ>や<身体>を
よく見て、理解したいものです
声だけでなくとかく私たちは
子供たちについて<結果>だけを見て
大人の物差しで早急に結論下しているようです
大人たちは子供のためと思い考えやっているのでしょうが
子供にとってはありがた迷惑に過ぎないのです
一方で、子供たちの<こころ>を掴むとか
<個性を大事に>とか<理解しなければ>と言いながら
本当の子供たちの揺れ動く<こころのありよう>をしっかりと感じ取り受け止めることを結果的に何も
していないのです
<こんなに一生懸命頑張ったのにちっとも分かってくれない>
結果を優先した判断デ子供のこころを眺めていると
子供たちの本当のこころが見えなくなり
そして子供たち<こころ>を閉じしまいには何も語らなくなってしまいます
親子の関係、先生と生徒、人と人との様々な関係はギクシャクし溝は深くなるばかりですまた、
それとは反対に子供に擦り寄る事ばかりしていると
親子、家族、友達といった様々な人間関係は冷え
いい子を演じ、理解あるいい親を演じ続けていると
何処かで<こころ>と<こころ>が通い合っていない
<偽りの関係>はいつか<偽りの関係>への苛立ちへと変わり大きな破局に至ります
大きなしっかりとした声が出なくなった時に
<こころ>と<身体>に何かが起こっているとことに目を向けて欲しいと考えます
子供たちの<こころの歪み>は<身体の歪み>となり子供たちの<身体の歪み>は<こころの歪み>
となって現れている。私にはそう見えるのです
<身体の歪み>は<身体の衰弱>とも言い換えられます
<身体の歪み・衰弱>
<こころ>の問題は<こころ>だけを問題にしていては
なかなかその脱出口は見いだせません
<こころ>の問題は
<身体>問題として捉えてみる事です
子供が抱えている<こころ>の問題を
直に子供に問いかけても
なかなか言葉が返ってきません
問題点を上手く引き出せません
それは当たり前です
子供が抱えている<こころ>の問題を
上手に喋れたら問題にはならないからです
子供が抱えている<こころ>の問題は
子供の<身体の変化>に気づくことが大事です
言葉で出来ない<こころ>問題を
<身体>のSOSとして
子供はしばしばこころの悩みや問題を
身体の変調として発信することはよく知られていることです
言葉を持たない年齢ほど
ころの悩みや問題を<身体>のSOSとして発信します
不登校の問題でよく耳にすることは
<お腹が痛い>と言って学校を休む
医者に連れてゆくと<何でなない><神経性のもの><ストレス>
などのと診断を下されます
●<身体の衰弱><身体の歪み>
はどう捉えたらよいのか
先ず、簡単なことから見てゆくのが分かりやすいと考えます
@歩き方
A姿勢
B呼吸
@発声
A発音
@重心と重心移動
A身体の仕組みと身体の動きと表現
B身体のバランス
@声や気持ちを相手に届ける
A相手の声や気持ちを感じ取る力
B身体の仕組みを踏まえた表現力の開発
<身体のメカニズムと表現の関係に関心を持ち、見つめること>
●基本について(1)腹式呼吸について
●高校の演劇部や俳優の養成所や学校で指導をして来ましたが、そこで腹式呼吸の必要性を知らない生徒はいないですが、
●<あなたは腹式呼吸をマスターしていますか>と質問してみたのですが、多くの人が<自信がない>と答えました。
●複式呼吸について充分な説明を受けていないのだと私は考えました。
●それから、演劇部やアマチュア劇団などでよく見かける<発声練習>これは簡単に言ってしまえば不思議な発声練習です。
●ある劇団で、みなさんが日頃やっている、
<その発声練習は何の為に必要なのか>、また<その発声練習は表現とどのように結びついているのでしょうか>
と質問してみたのですが、
●「昔やってたから」とか「先輩に教えてもらった」とか「演劇部の伝統だから」と
●実際に自分たちがやっている発声練習の必要性やその狙いをハッキリ持ってやっていないのですね。
●言ってみれば
不思議な呼吸法や発声練習のマニュアルが一人歩きしているだけなのです。
●教える側も呼吸や発声、発音は言葉を使う表現者の基本の基本と力説しながら体得させることなく、
●腹式呼吸の身体的メカニズム・発声の身体的メカニズムを身につけさせる方法論を持たず、昔やっていたことを
ただ断片的な曖昧な説明でやっているに過ぎないのだ。
●個人個人が抱えている問題点(癖)は千差万別です、指導する側は個人個人に自分の癖を認識させ、
●癖を指摘するのは誰でも出来ますが、癖を取り除く作業はそう簡単ではありません、根気が必要です。
●腹式呼吸、発声、発音の基本を体得するための土台づくりも必要です。
●私は姿勢と歩き方から始めますが、
その前に自分の姿勢・歩き方をチェックし自然な姿勢・歩き方を身につけることが大事だと考えています。
●基本について(2)立って歩く
●<立って歩く>、これは人間の人間たる証です。
現代人はその立って歩く基本を忘れつつあるのではないかと考えます。
●最近TVなどで<現代人は歩き方を間違えている>と言ったショッキングな特集がありましたが、
●歩き方の基本は何だろう。
考えてみますと、それは<動物的本能>に根ざした<攻撃と防衛の本能>と関係していると考えます。
●攻撃と防衛は言い換えれば<攻めること=獲物を捕る>と<守ること=身を守る>ということです。
●人間の<攻める>行為は守ることを含めての行為です。<守る>行為は攻めることを含めた行為なのです。
●<攻め>の動きは瞬時に<守る>動きにつながる<攻め>の動きなのです。
また、<守り>の動きは瞬時に<攻め>の動きにつながる<守り>の動きなのです。
●動きの基本は<動物的本能>に根ざし、それは生きるための無駄のない効率的な歩き方だと言えます。
●正しい歩き方などなく、あるのは<動物的本能>に根ざした、生きるための無駄のない効率的な歩き方が
あるだけです。そしてそれは全ての人に本来的に備わっているもです。
●ですから人間の身体の仕組み添って歩くと、それは効率的であるが故に自然で美しい歩き方になるのです。
自然で美しい歩き方が何処かにあるのではないのです。
身体の仕組み歩く姿を少し考えて見れば自然と理解可能なことです。
●身体の仕組み添った歩き方を取り戻しさえすれば良く、新たに訓練してつくり出すものではないのです。
●動物的本能に根ざした、無駄のない効率的な歩き方を先ず知るために、実際に歩いてみてそのメカニズムを
知ることが先ず必要です。
●基本について(3)身体の動き
●動く、歩くといった表現は全てが身体の動きのメカニズムに則して生まれます。
●身体の仕組みに添って動き、歩かないと、動きが良くない、動きが変だということになり、結果的には動きや
●身振り表現にリアリティーが無いということになるのです。
●腹式呼吸も発声も発音もそうです身体のメカニズムに反していては巧くはゆかないのも当然です。
●しかもそれぞれが単独で機能するものではなく、複合的に関係し、それぞれが総合的に機能して表現としての力を
発揮するのです。
●身振り表情や動きと言った身体的な表現の全ては、身体のメカニズムと関係しています。
●人間の身体は簡単に言いますと左右対称になっております。
左右をバランスよく使いながら動いたり歩いたりし、様々な機能が果すのです。
これが簡単に言ってしまえば身体の仕組みということです。
●左右への移動、重心移動は表現と深く係わっています。
●上下の動きも左右の動きと関連して動く仕組みになっています。
●座る・立ち膝・中腰・立つという動きを実際に試してみると
その仕組みを理解できます。
身体の仕組みや動きのメカニズムを少し観察するだけで動きのメカニズムや仕組みを容易に理解できます。
●基本について(4)見えないものを
●頭で考えた演技をするなとか
説明的な演技をするなとよく言われますがどうしても台詞を解釈したり、どなん気持で喋ったらいいのかと
考えがちですが台詞や動きは頭で考えたり、身体で感じたりするだけではリアルな生きた表現は引き出せません。
●舞台空間の目に見えるものだけでなく
見えないけれどあるもの、また、無意識に感じていなければならないものを感ずる身体をつくることが大事です。
●空気の存在は言われてみれば誰もが納得しますが、存在するものとし感じながら生きたりしていないように。
●舞台で自分をとりまく全てのものを常に感じながら表現する身体や感覚を身につけること
●役者の多くはどう演じ表現するかが大きな関心事になっていて、そんな事は全く考えない。
考えなくてよいことなんですが、表現以前の身体問題として捉えることです。
●舞台に立っただけで大きく見える役者は言い換えれば見えないものを全存在をかけて感じ立っているからでしょう。
*話は少し飛びますが、人前で話したり、表現する事も経験を重ねて身につくものですが、
人前に出ると<上がってしまう>よくいいますが、これは場数を踏むことで自然と身につくものなのです。
ですから、上がっても、上手く行かなくても諦めずにチャレンジすることです。
●<人前で話す>なんてことはとんでもないなどと言わずに
諦めず、根気よく、恥ずかしい思いを恐れずやってみることです。
●基本について(5)舞台に立つ
舞台は宇宙です、気の遠くなる、果てしない時間と空間の中
宇宙の中の小さな存在あることを少しも気に病むこともなく
人は生きている
気づいたところでどうなるということもないが意識することなく人は
そうした存在であることを身体の何処かで感じている
ここが大事
知ることもなく考えることもなく身体が自然にやっていること
この頃の人はとっても変な感じがします。
知らぬ間に次第に身体が狂いはじめ
多少の狂いは命に関係ないから始末に終えない
舞台に立つことは舞台の空間を宇宙として捉え感覚を研ぎ澄まし微かな動きや変化を
全身で捉える足裏からは地球のマグマの動きを
敏感に感じ全身で微かな動きも逃さず
アンテナは宇宙の全ての動きを捉えながら命の鼓動を感じてる
立つと言うことは人の人としての原点で素直な人としての立つという感覚を
取り戻すことでしょう。地に根を下ろした表現が人のこころを揺り動かすのです
一流の文化芸術に触れる
これも大切
一つの表現行為
創造に加わることで
きっと何かが変わる
大事な何かが見つかるでしょう
●基本について(6)肉声
なぜ肉声にこだわるのだろう。
こだわる理由が先にあったのではなく、
演劇に関わる仕事のなかでマイクで拾った役者の声は生の声(肉声)に比べると血の通った温もりもなく
声がこころに差し込んでこないことを何となく感じていたました。
一方で私は、俳優養成所の指導をしていたのですが、なぜ普通に台詞が喋れないのか、何処に問題があるのか、
何とかならないものかとやっているうちに、彼らの多くが呼吸や発声や発音に歪みあり、それらが歩き方や
重心移動とか姿勢といった身体と深く関係があることを発見し、彼らが身につけている呼吸・発声・発音の癖、
歩き方や姿勢といった癖が身体のメカニズムと深く係わっていることに気づき。また身体の歪みを解きほぐす
ことで、声も問題や上手く喋れない、上手くといいますか自然な動きや身振りとか動作が自然な表現として流れ
出ることを発見しました。
様々な身体の歪みや衰弱からくる癖を溶かしてゆくと
結果として彼らが発する言葉が実に説得力のある言葉に生まれ変わり
私のこころに響き始める瞬間に出会いました。
文字を越えた肉声の豊かさと肉声でしか伝えられないもの
私はこれを言葉の命だと感じました。